私は普段からランニングを習慣にしていて毎週土曜日(ときどき金曜日)にはロングジョグで京都市内の観光名所を目標に走っています。
そんな折に気が付いたのが通り道にある東寺の掲示板です。「お大師さまのことば」として毎月お言葉が掲載されていまして、今年はそれを集めることをひそかな楽しみにしていました。
お大師さまのことば、とは
京都市にある東寺の南大門の前には大きな掲示板がありそこに掲示されている「お大師さまのおことば」。私の家から市内中心部に向かう際に通りやすいこともあり目についたので興味本位で毎月撮影していました。
私自身はあまり宗教に傾倒しているわけでもなく学びがあるわけでもなく。ただなんとなく通り過ぎるだけだとなんか罰が当たるのではみたいなぼんやりした感覚で南大門を通るときには一礼していました。
東寺は嵯峨天皇から弘法大師空海に託された寺であり日本ではじめての密教寺院だそうです。つまりここで書いてあるお大師さまというのは空海のことを指していると考えられます。(毎月行われる東寺の市のことを弘法市と京都の人は呼んでいます)
その空海のことばの一説をとりあげて解説しているというのが掲示板の意図でしょう。
私には仏教の素養がないため書いてあることがイマイチよくわからないという部分も正直あるのですが「これはそうかも」と思うこともあり、毎月のランニングの楽しみのひとつでした。12枚分を並べてみますのでお好きな内容を探してみてください。

生はこれ楽にあらず 衆苦のあつまるところなり

凡夫酔狂して吾が非を悟らず

糸を合わせて綱と成し 塵を聚めて山と為す

道を聞いて動かずんば 千里いずくんか見ん

衆生愚迷にして 自心に仏が有ることを知らず

始めあれば終わりあり 生ある者は死あり

他が己に従うことを欲し 己が他に従うことを欲せず

蓮華の浄しといえども 泥を離れざるが如し

頭を剃って欲を剃らず 衣を染めて心を染めず

善を廻らす施主は 災い転じて福となす

およそ一切の病は 煩悩より生ず

我を生じ我を育するは父母の恩 天よりも高く地よりも厚し
NotebookLMに読み込ませてみたら
ふと、こういった宗教的な内容を生成AIに読み込ませて記事を書かせてみたらどういうものができるのだろうか、と思いNotebookLMに画像を読み込ませてみました。出来上がった記事は以下の内容です。
お寺の掲示板で見つけた、人生が少し楽になる5つの意外な教え
日本を旅していると、お寺の門前にある掲示板に、墨で書かれた味わい深い言葉が掲げられているのを目にすることがあります。
私たちはそれを一瞥して通り過ぎてしまうことが多いかもしれません。しかし、立ち止まってよく読んでみると、そこには現代社会の慌ただしさの中で忘れがちな、深く、そして時には直感に反するような知恵が隠されています。
これらの言葉は、単なる古い教えではありません。複雑な人間関係や仕事のプレッシャー、将来への不安といった、私たちが日々直面する課題に対する、驚くほど実践的なヒントを与えてくれます。
この記事では、数ある教えの中から特にインパクトが強く、現代人の心に響くであろう5つの言葉を厳選し、その意味を紐解いていきます。
本当の清らかさは、泥の中から生まれる
私たちは困難や逆境を「泥」のように汚れたものと捉え、できるだけ避けようとします。
問題のないクリーンな環境こそが、良い結果を生むと信じがちです。しかし、この教えは全く逆の視点を提供します。
蓮の花が、泥水を吸い上げてこそ美しい花を咲かせるように、真の強さや美しさは、人生の混沌とした厄介な現実から逃げることによってではなく、その真っ只中を生き抜くことによって育まれるのだと説いています。
この考え方は、困難に直面したときの私たちの心を軽くしてくれます。問題は避けるべき敵ではなく、自分を成長させてくれる土壌なのだと捉え直すことで、より力強く現実に向き合うことができるのです。
蓮華の浄しといえども 泥を離れずが如し
「負けて勝つ」という意外な強さ
競争社会に生きる私たちは、「勝つ」ためには自己を主張し、他者を論破することが必要だと考えがちです。
しかし、この教えは、真の勝利への道はむしろその逆にあると示唆します。「他人が自分に従うことを望むな。むしろ自分が他人に従うことを望め」というのです。
これは単なる敗北主義ではありません。むやみに対立して小さな勝利(「勝って勝つ」)を積み重ねるのではなく、あえて譲ることで、より大きな調和と持続可能な関係性を築くという、高度な戦略(「負けて勝つ」)です。
どうしても納得できない時でも、まず「おっしゃる通りです」と一歩下がってみる。そうして争わずに自分から負けていくことで、人間関係や組織の中で、最終的により大きな信頼と成功を得られるのかもしれません。
他が己に従うことを欲せず 己が他に従うことを欲せ
自分の欠点は失敗ではなく、出発点である
「凡夫は狂酔して吾が非を悟らず」という言葉は、普通の人間は自分自身の欠点や過ちに気づかず、まるで酔っ払っているかのように生きている、という厳しい指摘です。
しかし、これは単なる非難ではありません。むしろ、これが人間の普遍的な状態であり、自己成長における最も重要な「出発点」なのだと教えています。
この教えが驚くべきなのは、その先に続く約束です。自分の至らなさ、愚かさに気づいた「その瞬間」、あなたは仏に会うのです。
なぜなら、本当の自分に気づいた人のことを「仏」と呼ぶからです。自己批判はネガティブなものではなく、その瞬間に悟りへと至る、最もパワフルなきっかけなのです。
凡夫は狂酔して吾が非を悟らず
自分の「着物」と本当の自分を混同しない
僧侶が頭を剃っても欲望まで剃り落とせるわけではないように、外面を変えても内面が変わるわけではありません。
この教えは、その比喩を私たちの人生全般に広げます。私たちが身につけている肩書きや社会的地位、財産はもちろんのこと、大切に積み上げてきた「教養、年齢や経験など」も、すべては一時的な「着物」に過ぎないというのです。
多くの人は、この着物を立派にすることに躍起になり、その下にある「心」、つまり本当の自分自身を忘れがちです。
しかし、いくら立派な着物をまとっても、中身が伴わなければ真の成長はありません。あらゆる装飾を取り払った「裸の人間」に立ち返ること。そこからしか、本当の意味で人生を前に進めることはできないのです。
頭を剃って欲を剃らず 衣を染めて心を染めず
苦しみから逃げない。人生はそこで起きている
「世界情勢はますます混とんとしてきた」と感じ、先行きの見えない不安の中で「仏教なんて役に立たない」と虚しさを覚える人もいるかもしれません。
そんな現代の私たちに、この言葉は厳しいほどの現実を突きつけます。「人生は決して楽ではない。あらゆる苦しみが集まる場所である」と。
これは、苦しみや不幸を異常事態と捉え、一刻も早く取り除こうとする現代の風潮への、力強いアンチテーゼです。
苦しみこそが人生の標準仕様であり、それこそが私たちを成長させる原材料なのだと説きます。
そして、この現実を直視し受け入れた時、私たちには「禍を転じて福と為す」、つまり不幸を縁として幸福へと転換する力が備わっていることに気づくのです。
苦しみから逃げるのではなく、それこそが人生の舞台だと受け入れること。それが、どんな逆境にも耐えうる本当の強さを手に入れるための第一歩なのです。
生はいずれ楽にあらず 衆苦のあつまるところなり
まとめ
割とそれなりの内容が出てきて驚きました。最近は生成AIの進化のスピードがすごいので追いついていく、キャッチアップしていくのも大変です。ただ自分がどうありたいか、どの状態にしたいかで自然とやるべきこと使うべき機能も見えてくるのかなと。
自分の仕事に有用な部分を中心に作業効率を上げていくために取捨選択していくことも必要です。
ランニングを続けるにしても毎月、毎週で楽しみがあると続けやすいと思います。そういう意味では京都はターゲットにしやすいランドマーク(神社仏閣)が多いので助かっています。来年も引き続き掲示板についてはフォローしていくつもりです。
